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ラグビー人生の美学

 

 

善紀クリニック  山地 善紀

 

 小学生の頃、古びた農村の集会場で卓球に興じ、神社の境内で、毎日友達との草野球に明け暮れた。よくある話で、当時は充分広く感じられたその広場も、今その場に立つと、実は猫の額ほどしかない。思えば、その頃が私のスポーツとの出会いであったかもしれない。ある日、町の公式試合で、ユニフォームもない田舎っぺの草野球チームのエースとしてマウンドに立った私であったが、立派なおそろいのユニフォームを着た相手チームに圧倒され、1回でノックアウトされたという苦々しい経験を持つ。

その後、高校時代のわずか3ヶ月間所属した卓球部、浪人時代の自己流空手、気晴らしのテニス、もう上達などあきらめてしまったゴルフ、・・・というスポーツ遍歴の中で、唯一私にとって生涯スポーツとなりそうなのが、ラグビーである。私のラグビー人生は、3歳年上の兄が、楕円のボールを持ち11秒台の俊足で大学のグランドを駆け抜ける姿を見て、「ぼくも」と徳島大学医学部ラグビー部の門を叩いたことに始まる。

昭和44年、大学紛争の真っ只中。昼夜を問わず街頭デモとラグビー練習にどっぷり漬かり、泥臭くも若いエネルギーの発散に乗じていた。あげくの果て、過労で狭心症発作に襲われ、心臓カテーテル検査を受けた後、先輩医師からスポーツの再起不能を宣告された。しかし、その忠告も聞かず、2年後には再びスパイクを履いてグランドに立った。この無謀さは、「今も変わらない」とよく言われるが、この学生時代の病床からラグビーへの復活そのものが、幾度もの困難を乗り越えて今ある私の原点なのである。それから35年たった今も、40歳以上のラガー集団、讃惑クラブ(香川)と惑染クラブ(広島)のプレーヤーとして、現役ラガーを自認している。

 一方、昭和59年よりラグビー少年の育成に携わってきたところ、昨年、ある事情から『さぬきラグビースクール』を立ち上げる世話人となった。何でもそうであるが、新しく組織を作るというのは、並大抵のことではない。グランドやボールなどハード面が整っても、肝心なのはプレーする子ども、指導者、つまり『人』である。しかし、心配することはなかった。ここでもまた、ラグビーに助けられることとなる。現在、20人の良き指導者と70名のチビッ子ラガーが、毎週日曜日に土器川河川敷で走り回っている。

 最近つくづく、医者とは、スポーツドクターとは、人生とは・・・と思う。私にとって、これらを考える上でやっぱりラグビーは切り離せない。一つは医療の技術面で、子供から老年まで、実際にさまざまな年代の人と競技してきたことで培われてきた、外傷や障害に対する勘ともいうべきもの。ここまでは・・・、これなら・・・、という限界が不思議とわかる。スポーツが生活の糧であったり、人の人生をも左右するほど大きな存在になってきた今、その判断は医療の現場で欠かせないものとなっている。

 しかし、ラグビーが私に与えてくれた最も重要な財産は、人間としての幅、人間としての余裕、そして生きていく上での活力である。それは、医療の現場だけでは到底得られないさまざまな人との出会いと交流、そして純真な子どもたちの成長に携われることへの喜び、子ども達から与えられる『生』へのエネルギーなのである。

これからも、医療を続けていく限り、あるいは医療の第一線から退いても、ラグビーだけは生涯現役を目指して年を重ねていきたいと思っている。

 それにしても、昨今のスポーツブームはいかがなものか。老若男女を問わず、日曜日になるとさまざまなスポーツへと無理に駆り立てられているかのようにも見える。また、勝利至上主義からくるオーバートレーニングの低年齢化。ドクターとしては、「スポーツが健康のために役立っているのか、病気をもたらす原因になっているのか。」悩みが尽きない。皆さんはどうお考えでしょうか。

私のラグビー人生の最終点は、中学時代より求め続ける「死の美学」であり、そのモットーは「我、死すれど、我、全てに感謝せり。」 

I will die, and thank you for all people.

rg

 

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