『3Chのハチャメチャ航路!』 3Ch・・・Change、Choice、Challenge 山地 善紀 最初に訪れたChangeは、18歳の時。 6年間の暗き中・高校生活から脱皮する為、高校卒業と同時に両親が命名した「よしき」を自ら「ぜんき」に改名した。 それは中学校卒業式の予行演習で、教頭先生が私を「よしのり」と呼んだため起立を拒否したのが発端である。戸籍を調べると、漢字で「山地善紀」と 命名しているだけでふり仮名の記載がない。これはチャンスとばかり入学願書から「ぜんき」にChangeしたのである。 1回目の徳大受験では、試験前日に宿泊した駅前旅館で腹痛と下痢に襲われ、神経性胃腸炎と診断された。食事も取れないまま、試験会場では 試験官に許可を得て、机上に「医者要らず」の植物―アロエを置き、時折口を湿らしながら2日間の試験を終えた。植物の名前どおり、 徳大は「眉山ノサクラ散ル」。80倍の三重県立医科大学は「伊勢海老トレズ」、26倍の信州大学医学部も「信濃路、雪深シ」と、その年は連戦連敗であった。 同志社大学工学部への入学を諦め、浪人を決意。心身の鍛錬を目的に、4月1日から合格するまでの約1年間、雨の日も雪の日も毎日必ず午前0時に 空手衣に着替え、合格鉢巻を頭に付け、術棒を片手に田舎の暗い夜道を約4kmランニングした。さらに兄から教わった空手と棒術の演武を 30分間行って入浴し床に就くのが私の日課だった。夜中に気合の掛け声を発する私は近所の人たちの目にはさぞ奇異に映ったことだろう。 その甲斐あって成績はめきめき上がり、一浪後徳島大学に入学。充実した学生生活を送るため早々にラグビー部の門をたたいた。しかしながら教養時代に 狭心症を患って大学病院第2内科に約3週間入院。主治医からの宣告はスポーツへの復帰は不可能というとだった。そこで一大決心し、女の子が多いという 単純な理由で、これまでとは違う「静の場」である茶道部をChoiceした。四国4県の大学茶道部交流キャンプや徳島中央公園でのお茶会などで、 多くの作法や禅の心を会得した。その後ラグビーにも復帰し、「静と動」の二つの道場で傍若無人な6年間の大学生活を終えた。 卒業してすぐ4月に結婚。すべての遊びを終了し、整形外科修得に集中することをChoiceした。「アストンマーティンに乗る為、整形に入局しました」と 恩師・山田憲吾教授に公言して、4年先輩の栗若良臣先生との共同研究[膝関節のscrew home movement]をX線解析することに昼夜専念。 一時は放射線障害で白血球が2000以下に低下し食欲不振に陥るも、関節鏡セットを自ら購入してHKSターボ付きのスカイラインGTに積み込み、 爆音を響かせて四国4県を奔走した。一方、還暦を迎えてもなお車好きは変わらず、ポルシェ911に乗り込んで、善通寺―松山間の高速道路を ?時間足らずで爆走した。それでも不思議なことに15年間無事故無違反でゴールドの運転免許証を保持。ところが近年緑内障による右眼の視野狭窄を 発症した為、2013年11月16日の65歳誕生日にスピード狂の引退を決意。黒塗りのE55AMGから優雅で美しいBMW650iにChangeした。 医師としては、小松島赤十字病院、阿南共栄病院、県立三好病院に勤務しつつ「研究は如何なる場所でも患者がいる限り可能である」 をモットーに、膝の研究にChallengeし続けた。一方、入局6年目の春に「医局改革の意見書」を同級生で共同提出するべく教授室に乗り込んで、 恩師・井形高明教授には多大なるご迷惑をかけてしまった。 その年の秋大学を退職し、日独シンポジウム(ハイデルベルグ)に参加。30歳で吉田病院48床の経営をChoiceした。10年間諸先輩の援助を得ながら、 多くの学術講演や論文の執筆にもChallengeし医学博士を修得。関節鏡視下手術を筆頭に人工骨頭置換術、靭帯再建術、脊椎脊髄手術、血管撮影など 丸亀の基幹病院に引けを取らない手術を行った。 しかしながら40歳で離婚という大きなChangeが訪れる。香川を離れ広島市の浜脇病院に勤務することとなり、その地で28歳の教師と2ヶ月の交際の後、 電撃的に再婚した。43歳で再び帰郷して無床の診療所「ZENKI CLINIC」を開院。良質な医療を目指してChallengeを続けている。 スポーツでは38歳から讃惑ラグビークラブ(40歳以上の讃岐のチーム)に所属し、年に数回試合に出場。63歳の春には花園ラグビー場で7人抜きの 50mの独走トライをするも、哀しいかな走力の衰えには抗えず、今やガソリンの力を借りて走るクルマに夢を託しているというのが実情である。 2014年4月10日、突然歩行困難を来たし両膝脛骨に骨嚢腫を伴う疲労骨折が判明。ついにラグビー引退となった。 現在はゴルフ(HD14)に専念し、同級生のシングルプレーヤーにChallenge中である。 振り返れば「ぜんき」にChange後、常に前進あるのみ、まさに「今でしょ!」を48年間実践してきた。 これからは、晴耕雨読をモットーにマンゴーやぶどう、みかん栽培にもChallengeしながら、法定速度の安全安心運転で歩むつもりである。 記 2014年11月 |
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ただ今、カマタマーレ讃岐に出没中 |
ゴルフ仲間〔山地、藤原、香川、島川〕 |
マンゴーの温室栽培 |