「人生は長し、されど命短し」       

山地善紀                       

 

私は、昭和23年11月香川県多度津町で農家の三男として誕生。家の裏は砂浜の海岸線、山手には一面ぶどう畑が広がるのどかな土地である。両親は共に義務教育だけの高等小学校卒で農業に従事し、3人の息子たちには、弁護士、警察官、医者になることを切望していた。両親の期待にほぼ応え、長男は税理士、次男は警察を中途退職し行政書士、そして私は医師となった。

大学を卒業して50年、75才の脳裏に浮かぶ追想は、幼少期からの出来事である。小学校高学年時に畑のサツマイモを枯れ草の中で焼いて焼き芋にし、1個1円で友達に売ったり、友達から集めた漫画本をリンゴ箱の棚に並べて1冊1円で貸し出したりしていた。今なら小学校や教育委員会で大問題になるような、とんでもない行為だろうが、私はこの頃の子供商いからお金の有難味と商魂を学んだように思う。

隣家はこじんまりした田舎の診療所で、80歳近い秋山喜三郎先生がそこを営んでいた。私より2つ年下の先生の孫と将棋でよく遊んでいた関係からか、中学2年生の時、先生から木製の診療用机と回転椅子を譲り受け、医者になることを勧められたのである。それは、昔の診療所特有のあの消毒の匂いと白い布カバーが付いた、老医の机と椅子であった。この頃の私は、瀬戸内の夕日を眺めながら“死とはいかなるものか”と悩み、ニーチェの無神論にも憧れるような、今からは想像もできない真面目でうぶな青年だった。家業の手伝いと勉強に精進しながら、いつの日か“人生とは美しく死ぬものなり”と自分勝手な悟りに達した。

両親は米作、たばこ栽培、桃とブドウの果樹園を経営し、自宅には黒牛2頭とヤギ2頭、鶏が多数おり、自給自足には事欠かない生活だった。中学・高校時代は、この黒牛をけん引して田を耕し、ヤギから乳を搾り、たばこ葉の乾燥作業やぶどう棚用のコンクリート柱の運搬など、力仕事にも大いに汗を流して農業の苦楽を同時に体験した。

ある時、戦後、善通寺に駐屯していた米軍人のヨットを払い下げしてもらった私は、農業用テントを帆に改造して自分のヨットを作った。そのおんぼろヨットで危険を顧みず瀬戸内海を回遊したのは、優雅な思い出である。また、父が町会議員や農業委員を歴任していたので、社会党の成田知己委員長など国会議員がよく訪れていたのを覚えている。この頃の記憶が、大学時代1日1万円の県会議員選挙運動アルバイトに役立ったように思う。

大学時代は、と言えば…。幼少期からの純朴な想い出がどこかに吹っ飛んでしまうような、研修を兼ねた偽医者バイトによる教授会での卒業取り消し問題、卒業試験でのカンニング、香川大学で実施された医師国家試験のチラリのぞき見など、悪行は数え切れない? 当時の医学部長だった産婦人科教授足立先生の、「将来性のある医師の芽を切ってはならない!」の一言で無事卒業でき、さらに試験会場での監視試験官の寛容と優しさのおかげで医師免許をもらえて、私は医師として今に至るのである。今回、卒業50周年にあたり懺悔の念を込めて母校に寄付金を進呈した。

今や75歳を迎え、クリニック経営、4000坪の果樹園、一向に進化しない趣味のHD12のゴルフ、67歳から始めた油絵、さらに自らの病気との闘い(狭心症、緑内障、過労症候群、人工骨膝移植…)など、休む暇もない。  

「人生は長し、されど命短し」である。

 

油絵1・ウクライナの涙(F10

油絵2・愛する妻と息子(F30

油絵3・10年後の自画像(F10

 

HOME